おいおい言うてますけども

生粋のテレビっ子

おばあちゃーーん

昨日*1半分、青い」を見てそう叫ばずにはいられなかった。

 

 

四月から新しく始まった朝ドラ、主人公は現在小学三年生の鈴愛ちゃん。

鈴愛ちゃんは、友達の律くんと一緒に、糸電話を作る。それは、三途の川を挟んで、おじいちゃん仙吉さんに、おばあちゃん廉子さんと話をさせたいと思ったから。

そんな思いを知った仙吉さんは、家族みんなで御墓参りに行こうと提案する。そしで、御墓参りの後、お墓のある小高い丘の上で、それぞれが空にいるおばあちゃんに話しかける。

 

「おばあちゃーん」

「おかあさーん」

「廉子さーん」

 

 

 

 

おばあちゃんのことを思い出した。

 

私のおばあちゃんは、10年前に亡くなった。病気だからと、わかっていたのだけれど、とってもとても悲しかった。もう会えなくなるのだなと子供心に理解していたけれど、それでも別れは泣いた。

 

おばあちゃんは、「私は天国に行くから、死ぬのはこわくないのよ。」と笑顔で言っていたのをよく覚えている。

 

おばあちゃんは、私にはとっても甘かった。

お母さんには買わなかったチョコレートを買い与え、お風呂に入ると足の指の間まで洗ってくれた。

いつも昼寝ばかりしていて、インターホンを鳴らしても起きないから何度もオートロックのマンションの玄関で立ち尽くすことがあった。

おばあちゃんが元気な間は、いつも髪を切ってもらったから、美容院に行ったこともなかったし、こっそりカニを買ってきては茹でて二人で一匹食べ尽くした。

 

一緒に住んでいたおばあちゃんの死は、私たち家族にとって、とても深い悲しみだった。

ベランダで空を見上げながら、お酒を飲み、「おばあちゃんは良い人だったよ」と言うおじいちゃんの潤んだ瞳は忘れられない。

 

 

 

私たち家族と、鈴愛ちゃんたちの大きな違いがあった。

 

鈴愛ちゃんは、空に向かって声をかけることで、家族と悲しみを共有した。

 

おばあちゃんが自分の中に大きく存在したことを知った。

そのおばあちゃんはもういないと知った。

そして、それを悲しんでいいんだと知った。

そんな時間を過ごしていた。

 

 

時々、私たちは、悲しい気持ちを置いて、走り出そうとしてしまう。悲しい気持ちは置いて行った方が身軽だから。

それでも、どこかで置いてきたはずの悲しい気持ちは、いつも私の中にある。

悲しい気持ちに引っ張られている人を見て、早くそんなものから手を離しなよと思う。

もう走れないと行った人の手を無理やり引っ張ってしまう。

 

私にとって、おばあちゃんは大きな存在で、それは、お母さんにとっても、お父さんにとっても、おじいちゃんにとっても、同じだった。

それでも悲しすぎて、一緒に悲しむことは選べなかった。

それぞれがそれぞれの場所で懸命に涙をこらえて、前に進んできた。

おばあちゃんがいないぶん頑張らなければと、それぞれが思い、それぞれがどうがんばても埋まらない隙間を埋めようとしてきた。埋める必要はなかったのに。

おばあちゃんを一緒に思い出して、一緒に悲しむことができていれば、一人で悲しむこともなかったのにと思う。

 

鈴愛ちゃんは、仙吉さんの手を握り、一緒に立ち止まった。立ち止まる勇気があった。おばあちゃんは確かに自分たちのそばにいたこと、今も自分たちの中にいること、この世にいないのは悲しいことだと気持ちを共有した。

 

鈴愛ちゃんと同じ強さもちたい。

立ち止まって悲しんでいいんだといえる勇気を。

 

自分の人生でも、他人の人生でも。

 

 

 

 

 

半年くらい前(2018年4月)に書いたものを今更(2018年11月)に公開。

 

*1:2018年4月10日放送第8話